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グランドセイコーができるまで【誕生編】

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2020年で60周年を迎えたグランドセイコー。その歴史は元をたどるとさらに昔、セイコー(SEIKO)から続くクラフトマンシップと「時を刻む」ものである時計への真摯な向き合い方があって今ここに至ります。セイコー(SEIKO)が創業したのは1881年なので、今回は「グランドセイコー誕生編」として、どういった経緯で1960年のグランドセイコー誕生に至ったかを紐解いていきたいと思います。

「精巧な時計を製造する」という決意でできた「精工舎」

世界の時計づくりの頂点を極めるべく、腕時計の本質を追求し、たゆまぬ進化を続けてきたグランドセイコー。その根底にはセイコーの創業者「服部金太郎」の「常に時代の一歩先をゆく」という信念があり、これが創業以来ずっと受け継がれています。服部金太郎は「時計の国産化」という目標を実現すべく、1892年に時計工場「精工舎」を立ち上げました。「精工舎」という名前には「精巧な時計を製造する」という決意が込められているそうです。そして時計の研究を重ねながら職人の育成にも力を入れ、精工舎は1895年には懐中時計の生産に成功しました。服部金太郎にはまさに先見の明があったんですね!
これ以降になると置時計や懐中時計の生産に乗り出す業者も数を増していくなか、精工舎の次の挑戦は腕時計の生産でした。これは当時、かなり冒険的な挑戦ではあったものの1913年には国産初の腕時計「ローレル」を完成させます。
セイコーが国内初の腕時計ローレルを作る
この1年後、第一次世界大戦が勃発したことで国内では輸出産業が盛んになっていくのですが、精工舎と服部時計店もこの潮流に乗り、欧米からの時計生産を受注するなど、アジア市場で欧米メーカーと覇を争うまでになり「東洋の時計王」としてその名をはせるようになったのです。

グランドセイコーに継承された製造から工作機械のメンテナンスまで、全ての製造工程を自社で管理する一貫体制

1911年の時点で国産時計のシェアを約60%も占めていた服部時計店。しかし1923年の関東大震災で被災し、その復興の道は険しいものでした。それでもその復興・復旧を敏速に行うことができたのは服部時計店が製造から工作機械のメンテナンスまで、全ての製造工程を自社で管理する一貫体制を持っていたことが鍵となっていたと言われています。この一貫体制は今でもグランドセイコーに受け継がれている体制です。

1950年、時代を画する新モデルを次々発表

こうして復興は着々と進み、1932年には現在の和光本館として知られる「服部時計店本店」が完成します。
グランドセイコーの前身セイコーが和光本館竣工
この5年後には亀戸には「第二精工舎(現在のセイコーインスツル株式会社)」が設立されました。第二精工舎はもともとの精工舎から独立したウォッチ部門だったのですが、太平洋戦争の影響で時計の生産ができなくなってしまいます。そのため、戦後には疎開先であった長野県諏訪市に拠点を移してようやく腕時計の生産を再開しました。これは1959年には協力会社の大和工業と合併して「諏訪精工舎(現在のセイコーエプソン株式会社)」となります。
部門の独立や合併をしていく中で、セイコーはさらに専門的な技術を磨き、1950年には近代的なスタイルで人気を博した画期的な腕時計「スーパー」を発表します。さらに「スーパー」の薄型化を図った「ユニーク」や、諏訪工場が本格的に独自設計した「クロノス」を開発します。こうしてセイコーは進化していき、いよいよグランドセイコーの誕生へと歩みをすすめます。

1960年「正確で、見やすく、美しい腕時計」の追求から始まった「グランドセイコー」誕生!

こうしてついに1960年、「世界に通用する高精度で高品質な腕時計を作り出す」という決意のもとに「初代グランドセイコー」が誕生しました!
精巧で正確、美しく日本の美意識を取り入れた国産腕時計の初代グランドセイコー
日本の文化的背景を基に実用性に重きを置き、日本人のひたむきさ、誠実さを体現するべく、虚飾を排した質実剛健なモノづくりを実践し、「正確で、見やすく、美しい腕時計」を本質とした高品質の時計を一層追求していきます。