BROOCHで展開するアントワープブリリアントのダイヤモンドはダイヤモンド研磨の聖地アントワープで研磨されています。研磨を担当するのは現代研磨界の鬼才フィリッペンス・ベルト氏です。15世紀の昔からダイヤモンド研磨の聖地となっていたベルギー、15世紀の当時はブルージュという港町に経済が集中していました、世界初の自由貿易都市として栄えたブルージュですが、運河や湾に土砂が堆積して大型船舶の航行に支障を来たすようになり、運河港としても経済の中心地としてもその重要性を失って衰退してしまいます。
その後、ブルージュに代わる港として栄えたのがアントワープです。アントワープはベルギー北部の町で船や運河交易の要所として栄えました。ともなって腕利きの職人も多く集まる様に成り何時の日からかダイヤモンド研磨の聖地とも呼ばれる様に成りました。現在ではダイヤモンドビジネスと密接な関係のある大きなユダヤ人コミュニティーが有りダイヤモンドビジネスにおいて最重要地域と言える街へと成長したのです。
アントワープ Antwerp
旅行の本なんかではアントウエルペンと発音しているところも多いみたいです。Webでは半々くらいですかね?宝飾業界ではAntwerp⇒アントワープですので私たちもアントワープと呼びます。ちなみにオランダ語だとAntwerpen(アントウエルペン)フランス語だとAnvers(アンヴェルス)英語ではAntwerp(アントワープ)という具合です。
その他にもネーデルランドやフランダースなどいろいろな呼び方が有りますが、このれはこの地域が要所だったため大国の間で複雑な歴史的背景を持っていた為と思われます。その辺もちょっと詳しめに書いてみます。
上の地図を見てもらうとピンク色に色分けした部分がアントワープです。アントワープは北海へ流れ込むスヘルデ川があり北海からの交易船を受け入れる海の玄関口であり、スヘルデ川が上流へ登ればライン川、マース川、セーヌ川とヨーロッパの重要都市へとつながる河川運送の要所でもあったのです。川と海両方の交易によっていつの時代も重要な場所として栄えてきたのがアントワープです。
名前の由来はシルビウス・ブラボーの伝説
その昔スヘルデ川(アントワープ)に伝説の巨人「ドルオン・アンディゴーン」が住んでいて通行する船に通行料をとっていたそうです。そしてそれに応じない船乗りは手を切り落とされたそうです。そこにローマの英雄シルビウス・ブラボーがやってきて悪いこと事をする巨人ドルオン・アンティゴーンを懲らしめて手首を切り落とし川へ投げ捨てたそうです。それによってアントワープは自由に解放されたのだとか、、、
アントワープ市の中心部、市庁舎のある広場にはその伝説を銅像にした記念碑が有ります。日本では”首”なんですが中世ヨーロッパでは”右手首”が「死手譲渡」の証だったようです。写真左が市庁舎、右はギルドハウス。市庁舎の裏手がスヘルデ川。当時世界でも指折りの自由貿易都市らしく市庁舎には多くの国の旗が掲げられて象徴的です。
こうして自由解放されたアントワープは海と川の交通の要所として栄えていきます。ダイヤモンドとベルギーのかかわりを決定的にするのは1400年代、ダイヤモンドこそ権力の象徴であると考えていた時のブルゴーニュ公シャルル突進公の時代にまで遡ります。
当時のヨーロッパはフランスとイギリスの100年戦争なんて言われる時代。大国同士が争って紛争が絶えないころ周辺諸国も当然覇権争いに巻き込まれたり自ら戦火に飛び込んだりと様々な動きがあったようです。アントワープを含む現在のベルギー一帯を支配していたのはブルゴーニュ公国でした。
経済的に成功して大きな力を持ったアントワープはフランドル地方の毛織物産業、イギリスのイングランド産毛織物、ポルトガルからの胡椒やシナモンなどの香辛料、ヴェネツィアやドイツ・ケルンの商人達でにぎわいました。そうした交易品の中には王に献上されるダイヤモンドもあったのです。
Lodewyk van Berken ルドヴィック・ヴァン・ベルケム
宝石の加工は経済が豊かなこのアントワープの地で盛んにおこなわれるようになりました。当時ダイヤモンドはカットしたり割ったりする事が出来ても研磨したり切断するなどはできませんでした。そこでブルゴーニュ公シャルルはアントワープで一番の腕前だったルドヴィック・ヴァン・ベルケム (Lodewyk van Berken ローデウィク・ファン・ベルケンルとも呼ぶ)にダイヤモンドの研磨を依頼します。
ベルケムは試行錯誤の末にダイヤモンドをダイヤモンドで磨く方法の進化版として皮や木の板ではなく鋼鉄の回転盤の上で粉末状のダイヤモンドで大きなサイズのダイヤモンドを磨く事に成功します。これによってダイヤモンドに明確なファセットを着ける事が出来るようになったのです。
当時の貴族社会では明かりといえば蝋燭(ろうそく)等が主流でしたので、蝋燭のような揺らめく光の下で美しく光るにはダイヤモンドのファセットをより細かく磨きだすこの方法はとてもマッチしていたようです。
ベルケムの研磨したキラキラした面を持つダイヤモンドは貴族たちの間で話題を呼びその後ダイヤモンド研磨のスタンダードへと進化していきます。この技術を使った進化版で今でも目にするのが薔薇のつぼみをモチーフにした”ローズカット”です。
12,16,24,32面と平面にファセットを磨きだせるスカイフの登場によって美しい研磨面と類稀なる硬度から発揮される表面反射を手に入れたダイヤモンドは宝石としての価値を決定的なものにし不動の人気を得ていきます。
ベルケムは幾つか有名なダイヤモンドを研磨したと言われていますが、その中でも有名なのが「フローレンティン 137.27ct 」と「サンシー 55.23ct 」「ボーサンシー 34.98ct:110面」です。
シャルル突進公の依頼でベルケムはサンシー(Sancy)を研磨、さらに得意のローズカットを施したボーサンシー(Beau Sancy)を研磨し、そしてレモンイエローのダイヤモンド「フローレンティン(Florentine)」を世界最初の対称的なファセットを持つダイヤモンドとして研磨したといいます。
ダイヤモンドを力の象徴と信じていたシャルル突進公はいつもフローレンティンダイヤモンドを身に着けていましたが、ナンシーの戦いでシャルル突進公が戦争に敗れた時に3つの大きなダイヤモンドは敵に剥奪されました。
フレーレンティンはその大きさからダイヤモンドではなくガラスだと思ったスイス軍傭兵によってそのまま戦場から持ち帰られ、どこかに売られたと言われています。すごい話ですよね、その後、様々な人の手を渡って1665年にフランスで宝石商が所有していたので、その段ではダイヤモンドとして再び輝きを取り戻していたと思われます。
そして1918年王権の崩壊の際、最後の所有者であった皇帝カールI世がスイスへ亡命する時にフローレンティンを一緒に持って亡命した所までしか分っていません。残念ながらフローレンティンダイヤモンドは行方が分からなくなっていいるのです。
サンシーはローマ法王シクスタス4世に献上され、ボーサンシーは和解の”しるし”としてフランス王ルイ11世に献上されたといいます。サンシーダイヤモンドを見たルイ11世は宿敵戦死の知らせを聞いて涙を流して喜んだのだとか・・・
ちなみにこの時のベルケムが受け取ったダイヤモンド研磨の報酬は3,000ダカットだったとか、1ダカットはベニスで発行された純金の金貨。重さ約3.5gですから3,000ダカットはざっと純金10,500gです。金1グラム2019年現在約5,000円とすると・・ざっと5,250万円!!すごい大金です。いつの時代も特別な世界でたった一人しか出来ないようなことをやってのけると言う事はものすごい事なんですね。
2012年ボーサンシーはスイスの老舗オークションハウス「サザビーズ」で競売にかけられ904万2500スイスフランで落札されました。サザビーズはこのダイヤを「今まで競売に掛けられた中で最も魅惑的でロマンチックな宝石」と説明しました、またサザビーズの会長は「あなたが購入するのは単なるダイヤではなく、歴史的芸術品なのです」とコメントを残しています。そしてこの話のクライマックスはやはり世界最初のエンゲージリングですね!
マリー・ド・ブルゴーニュ Marie de Bourgougne
シャルルが戦いで命を落とすと王を失ったブルゴーニュ公国に対して即座にフランス軍が侵攻してブルゴーニュ公国(アントワープ一帯)を占拠してしまいます。幽閉状態になったブルゴーニュ公国の一人娘”マリー姫”はシャルル突進公が許嫁と決めていた隣国の王子ハプスブルグ家のマクシミリアンに救援に来るよう手紙を書きました。マクシミリアンはその手紙をもらうと即座に挙兵しオーストリア軍を率いて救出にやってきます。
マクシミリアンは見事にフランス軍を撃退しマリー姫を救い出したのでした。そして二人は結婚、この時マクシミリアンは婚約の証にダイヤモンドのリングをマリー姫に渡します。これはダイヤモンドこそ権力の象徴と信じていたマリー姫の父、シャルル突進公へのオマージュだったかもしれませんね。マリー姫は人類で初めて婚約指輪としてダイヤモンドを受け取った女性でした。ベルケムを中心としたダイヤモンド研磨の職人たちの想いや技術はその弟子たちに今日まで連綿と引き継がれ守られているのです。
しかもマリーがあまりにも美しい姫だったことやマクシミリアンとの劇的な結婚のエピソードは当時、世の女性の憧れとなり、この時代まで完全に男性の持ち物だったダイヤモンドが結婚などの人生の節目に女性に贈るモノになっていったのです。ただし愛の象徴として贈られたダイヤもモンドは親から子へ、そして子から孫へ家宝としてと引き継がれる宝石となるのです。アントワープは宝石を女性の持ち物にした街なのかもしれません。
マリーとマクシミリアンは結婚後幸せな家庭を築くのですが三人目の子供を妊娠しているときにマリー王女が急死してしまいます。マリー王女は今もベルギー北部のブルージュの聖母教会に眠っています。マクシミリアンはその後、神聖ローマ帝国の皇帝となり成功を収めていきます。
1519年に皇帝となったマリーとマクシミリアンの孫にあたるカール5世は大国の間で安定しなかったブルゴーニュ地方ネーデルランド(ベルギー)をついに統一支配します。カール5世はハプスブルグ家とアントワープの経済力を使い支配地域を拡大していき最終的にルーマニア北部からスペインまでヨーロッパ全域に領地を持つことになり『日の沈まぬ皇帝』と言われるほどの皇帝になります。
カール5世はブリュッセルを拠点にこの広大な領地を管理したそうです。カール5世の時代に全盛を迎えたハプスブルグ家はシャルル突進公や神聖ローマ皇帝マクシミリアンの悲願であったヨーロッパ統一まであと一歩まで迫ります。そうした偉大な王がマリーの孫にあたるカール5世なのです。
これだけ広大な領地を統治したカール5世ですが政治の中心を生まれ故郷のベルギー・ブリュッセルに置き、こよなくこの地を愛したと言われています。広大な領地を支配していたカール5世は複数の言葉を話す必要が有りました”I speak Spanish to God, Italian to women, French to men and German to my horse.” は有名。それにしても”ドイツ語は馬の為に”って・・・今でいうクルマみたいなポジションが馬だとするとどういう意味なんでしょうか?
ブルージュやアントワープにはマリーやマクシミリアン、カール5世などのモニュメントを町の至るところで見つける事が出来ます。旅行に行かれるチャンスが有れば足跡をたどる旅も面白いかもしれません
ブルージュやアントワープでは、よく見ると・・・マリーとマクシミリアンの家族が街の至る所に。中世そのままの石の建築物はそれだけで荘厳な雰囲気を醸し出します。因みにこの地域のトランプ絵柄はKING=シャルル、QUEEN=マリー、JACK=マクシミリアンだったりします。
ハプスブルグ家によるこうした統治はフランス革命マリーアントワネットの時代まで繁栄を極めましたが徐々に力失い19世紀初頭に完全に解体しました。華やかな貴族文化発祥はハプスブルグ家を大きく躍進させヨーロッパ随一の名門王侯貴族となっていくのです。
貴族文化の礎を築いたシャルル突進公が肌身離さず所持していたフローレンティンダイヤモンドは王権崩壊の時に最後の皇帝となったカール1世と共に歴史から姿を消したことを考えると、なんだか感慨深いものを感じます。
ベルギーのアントワープ
当初交易の中心として重要だったアントワープですが次第に経済という力を失っていき1600年ころからは歴史の表舞台に登場しなくなってしまいます。アントワープどころかネーデルランド(ベルギー周辺)が登場しなくなってしまいます、、、この間もオランダやルクセンブルクその他の周辺自治区とフランスなどの間で激しく自治権が入れ替わり続けます。乱暴な言い方ですがそうこうしているうちに約400年の時がたち現代になります。
この間は周辺自治区や国との歴史が複雑すぎるので重要部分を除いて割愛します。そして1830年にネーデルランド連合王国から独立しベルギー王国として建国されます。
首都が置かれたのはカール5世が政権をふるったブリュッセル。ブリュッセルから南をワロン地方、北をフランダース地方と呼ぶ国家として現在に至ります。アントワープはベルギー北部フランダース地方最大の都市で2000年以降の人口は約50万人。ベルギーは総人口で1,100万人ですから約5%がアントワープに住んでいることになります。
ダイヤモンドの集散地としてのアントワープ
ダイヤモンド研磨の技術はこの時も脈々と職人たちの間で継承されていてアントワープやブルージュなど北部の町に受け継がれていました。1830年のベルギー独立後「永世中立国」を宣言したことや自由経済にいち早く着目して動いていたことからベルギーでは世界に先駆けて産業革命が起こります。
アントワープには世界の富に深くかかわると言われるユダヤ人コミュニティーが有るのですが、これも金融で有利になったひとつの理由かもしれません。アントワープのダイヤモンド業界は産業革命の波に乗ってそれまで職人一人一人が手作業で行っていた作業を分割し分業化、ダイヤモンド研磨の工場を世界に先駆けて出現させます。
ダイヤモンドという極端に個性的な製品の生産はただでさえ高い専門的な技術が要求される作業領域なのですが、そこに着目したアントワープのダイヤモンド研磨は専売特許になり俄然注目を集めるようになります。
永世中立、自由経済、ユダヤの商人、ダイヤモンド研磨の技術と労働力。当時のアントワープにはダイヤモンドで成功するすべての要素が揃っていたと言っても過言ではないようですね!
そして1980年代から現代ではアントワープはダイヤモンドビジネスにおいて外すことのできない街となりました。アントワープのダイヤモンド産業にはベルギー政府の国策によって税制面で優遇され、より自由な取引が可能な街へと進化していきます。
伴ってダイヤモンド取引に必要な銀行、運送、税制、技術、知識と経験、人材、輸出入の規制など全てのインフラストラクチャーが高次元で揃っていったのです。
しかもサイトホルダーと呼ばれるデビアスグループのダイヤモンド原石を買い付けて研磨する事が出来る企業の事務所が世界で最も集中して軒を連ねました。アントワープのダイヤモンドストリートはベルギー軍によって厳重に警備された安全エリアとなり、ダイヤモンド取引の原石の輸入屋、ブローカー、カット工場、研磨職人、世界中の宝石バイヤー等で大いに賑わいました。
これはダイヤモンド取引所が集合するストリートの入り口に設置されている車用のセキュリティゲートです。宝石泥棒がクルマで安易に逃走できない様にボタン一つで道路を封鎖出来るようになっています。封鎖するときはもう少し仕掛けがあるとかないとか。。。これは各ダイヤモンド取引所で自在にコントロールできるようになっており、いつでも動かす事が出来るようになっています。安全なダイヤモンド取引のためにこんなものが道路に設置されてるのもアントワープの特徴です。
このセキュリティーゲートの奥がダイヤモンドストリート、世界中のダイヤモンドバイヤーが集まってくる場所です。アントワープは人種差別や経済的な理由による格差社会が無くとても開かれたマーケットが展開されています。
それぞれの建物の中にはサイトホルダーの事務所が入居していて入り口は厳重に管理されています。外国人である僕たち日本人が入場する際はパスポートを受付に預けての入場となります。パスポートはビルから出るまで返してもらえません。
ダイヤモンドストリートとは言っても宝石店や通常のお客様向けの商店はい一件もないのです。事前アポイントメントのない外国人はビル内部に入る事も出来ないので観光には全く向いていませんね。
アントワープには壮大なノートルダムがそびえる
アントワープのシンボリックなノートルダム大聖堂、毎日17:00頃までは6ユーロで中に入る事も出来ます。内部はカトリック寺院なのでとても荘厳な雰囲気です。石の大聖堂なので少しひんやりしてます基本的に寺院ですので大騒ぎは厳禁!静かに建物を楽しみましょう。
ノートルダム大聖堂の内部には宗教画が多くかけられています。キリスト教の中でもカトリックの寺院なのでマリア様にまつわる絵も多く展示されています。キリスト教の歴史やカトリックやプロテスタントの簡単な考え方について事前に調べていくと楽しみが倍増すると思います。
1600年代に活躍したピーテル・パウル・ルーベンスのキリスト昇架とキリスト降架を含む4点が展示されています。
アントワープを代表する作家のルーベンスの銅像、ルーベンス美術館も街中に有るので個別に訪ねるのもお勧めです。アントワープのノートルダム大聖堂は123m街の中でも特別高い建物です。アントワープで迷子になったらノートルダムの位置を確認して現在地を考えると便利です。今はグーグルマップが有るから大丈夫ですかね?
このノートルダム大聖堂、本当は複数の塔を建てる予定で1352年着工しますが1530年ころ資金不足に陥り工事が中断、未完成のままの途中なんですが完成という形になっています。でも何本も鐘楼があるよりも今の方が美しいかもしれませんよね!
街のことなので書き出すときりがないのですがアントワープまだまだ紹介しきれない魅力にあふれると所です。ヨーロッパ観光に出かける際はベルギーも候補地に入れてみてはいかがでしょか?